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練吉は路の傾斜のために自然とずり下りかけた自転車を引き上げようとして身体を動かした。そのはずみに、彼の横顔が房一のすぐ鼻先きにぐつと近づいた。練吉の頬はきれいに剃刀かみそりがあてられ、もみ上げから下の青味を帯びつるつるした皮膚にはこまかい汗がにじみ出ていた。そのとき房一は思ひがけなく練吉の匂ひを、髪や香油のそれではなく、何か練吉その人の匂ひを嗅いだ。
かういふことになると、彼の話振りには一種の無邪気さが現れて釆る。
「それに、永い間この土地をはなれていたもんですから、土地の事情にもすつかり疎うとくなりましてね、これは一つ、どうしても今後こちらのお力にすがらないことには立つていけないと思つている次第ですが――」
半之丞の自殺を意外いがいに思ったのは「な」の字さんばかりではありません。この町の人々もそんなことは夢にも考えなかったと言うことです。若し少しでもその前に前兆ぜんちょうらしいことがあったとすれば、それはこう言う話だけでしょう。何なんでも彼岸前のある暮れがた、「ふ」の字軒の主人は半之丞と店の前の縁台えんだいに話していました。そこへふと通りかかったのは「青ペン」の女の一人です。その女は二人の顔を見るなり、今しがた「ふ」の字軒の屋根の上を火の玉が飛んで行ったと言いました。すると半之丞は大真面目おおまじめに「あれは今おらが口から出て行っただ」と言ったそうです。自殺と言うことはこの時にもう半之丞の肚はらにあったのかも知れません。しかし勿論もちろん「青ペン」の女は笑って通り過ぎたと言うことです。「ふ」の字軒の主人も、――いや、「ふ」の字軒の主人は笑ううちにも「縁起えんぎでもねえ」と思ったと言っていました。
「さうか、惜しかつたな」
「なに?」
「へえ、どういふわけでせう」
と、道平は云はれた通りに腰を下さうとして、椅子の円々とふくらんだ真新しい天鵞絨びろうどの輝きに目をとめると、しばらくまじまじと眺めていたが、もう腰をかけるのは止めてしまつた。やはりゆつくりした様子で立つている。
「さうさう、先だつてはお加減がわるかつたさうですが――」
いきなり忙せはしなく立上ると庫裡へ走つて行つて、間も無く茶器を揃へた盆を自分で持ち運んで来た。長い胴を折り曲げるやうな危つかしい調子で房一の前に置くと、
「梨地から水神淵へ降りる路ができたからね、そこへ出れば、帰りはずつと楽だ」
「はあ、はあ」
「獲とれましたか」